うつわやブログ

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February 12, 2011 10:30 PM

忘却メモ-唐津の開窯について

ここ数日はやっと暖かくなりそうな気配を感じながら、今日は寒さがもどり朝からみぞれまじりの雪。

昨日は夕方からギャラリー一番館さんで開催されてる矢野さんの展示会をみに福岡へ。6時過ぎから、ギャラリーオーナーさんの企画による作家の方々との懇親会に参加する。

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数日前に芽をだしてた"ふきのとう"

その時に、先日、福岡市の博物館での講演「桃山の茶陶-美濃焼と唐津焼その親しい関係」がよかったので、内容を竹花さんにお話するが、あっちこっち頭の中で欠損してる箇所がでてくる・・・なんだったけあの山の名前、鶏龍山に似たような・・・金鶏山じゃなくて?どの山か?探すだけで支離滅裂になってしまった(笑)

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春の香りがした。

なので、その講演でお聞きした内容をまとめてみる。

はじめに、唐津焼の開窯について。一般的に、文禄慶長の役(1592年)からといわれているが、それ以前にあったのではないかという事から。

壱岐の島の聖母神社に伝わる天正20年(1592)銘の茶壷の存在。

その壷は叩き作り、高台に貝の目跡あり、白濁釉のものらしい。階段式の連房式登窯。それらは朝鮮陶磁にはみられず(一部例外もあり)、天正年間には中国陶窯のもとに築窯された可能性が濃厚。その後、陶窯をもたない九州の大名たちが陶工を連れ帰ったという話。

次に、利休(1522-1591)所持の「ねのこ餅」の存在。
(利休さんが持ってたんだったら天正19年には、すでに唐津は焼かれていたことになる。)

そして、「葉隠」の著者山本常朝の父、山本重澄(1590-1669)の年譜。

矢部氏講演(レジュメ)より引用

佐賀藩の藩祖鍋島直茂が高麗国から帰陣の時(慶長3年)日本の宝となるべくと考え、焼物の上手を6,7名召し連れて帰朝した。その者どもを金立山(現在の佐賀市の金龍山)に召し置き、その後、伊万里内の"藤の川内"に移住させて、やきものをつくらせた。高麗人は増え、日本人も見習って、伊万里・有田方面に散在して皿屋を形成した。という意味のことを記している。

この金龍がどこにあるのかわからなかった・・・で、地図を検索し、いつも佐賀に行くときに通る金立SAのある金立だと今気付いた!なんで陶工はここに行ったのだろうか?
疑問をのこしつつ、あの"藤の川内"陶片を思い浮かべる。

その後の美濃と唐津の関係も、興味深いものだった。

今、外をみると、一面真っ白な雪景色。明日も寒そうです。

2月14日 追記
そういえば、唐津の窯でもっとも古いといわれる飯洞甕の陶片に中国の青磁ぽいものがあったのを思い出した。

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飛青磁のような唐津の陶片

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志野のような唐津の陶片

最初に見たときに、青磁風の陶片は現代もののように思え、これが飯洞甕窯の陶片とは信じられなかった。白飯洞といわれる陶片も志野と間違えそうです。

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Comments (4)

興味深いお話し、です。

陶を愛する先人達によって提唱された”推察”。残念ながらそれが”既定事実”になっている、古唐津の歴史。

うつわやさんご自身も今回色々お気づきになられたのではないでしょうか?

ブログでも書きましたが、私は文禄・慶長の役以降を古唐津始源期である、と考えます。この辺のところを前述の”推察”抜きに陶数寄の皆さんとやり合いたいもんです(笑)。

Moneyさんは文禄・慶長の役以降ですか~。
私は”以前”から土器の流れの窯はあって、生活必需品である叩きの甕ぐらいは作っていたと思うんです。(水甕ぐらいないと、木製品だけでは、生活には不便のような・・・)
ただ、釉薬や絵付けといったものは”以降”だと感じますよ。

この間の話ですが、葉隠の話は文禄慶長の役の事だったんですね。

やはり窯のことはどんどん分からなくなりますね。
古唐津のような窯は朝鮮半島には無かったと聞きますし、連房、割竹?の違いを判断する材料として、横の壁の形状や各部屋の横幅、また隔壁の厚みによって見分けますが、本当にそれで分かるのか?疑問に思うようになってきました。加重がどうの、形状がどうので本当に正しい判断ができるのか?と。

そういえば、古唐津は朝鮮半島からと言っていたホウアンさんが途中から中国説に変ったんですよね。

分からない事だらけです。

そうです~この前の話です。一応レジュメもコピーしときます。

私は窯のこと、全くわからないので・・・調査資料とかうのみのしてました!
400年前の事ですから、きっと鮮明ではないでしょうね。

飯洞の陶片をみると中国説も充分ありえそうです。
しかし、どちらか片方を選ぶのもおかしな話のようでもあり、高麗人もいただろうし、唐人もいたように思います。
そういえば窯の名前にもありますよね。市ノ瀬高麗神窯、唐人町窯(多久で唐片みました?)とか・・・

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