April 28, 2011 8:21 PM
芦雪とグールド
ミホミュージアムで開催されております「長沢芦雪-奇は新なり」図録を拝見して。
今まではそれほど強く興味をもたなかった分野ですが、細部の拡大された写真に、思わす見入ってしましました。
ガラス越しではなかなかみれないところや普段見落としがちなところが図録にはわかりやすく満載されており、とても嬉しいものとなっています。
この図録を拝見しながら、ふと、ある対談記事の言葉が思い出されました。
文藝別冊グレン・グールドより"よい姿勢"というのは、結局、19世紀型のコンサート・ピアニストの姿勢だかね、要するに、大きなホールで、デカい音で聴衆を隅々まで制圧するための弾き方だから。
ふと浮かんだことですが、音楽だけではなく、やきものも、お茶の世界も「大きなホールで、デカい音で聴衆を隅々まで制圧されている」ようにも思え、この図録をみて、細部への拘りというか、美しさというか、時代の流行に置き去りにされたようなものが、思い起こされたようにも感じられました。(グールドのCDと重なったようにも)
そして、しっかりと、耳をすまし、目を見開いていけば、ものはちゃんと観えて、後に残るモノが作れるのではないかなどと思えてきた・・・
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Comments (6)
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ちょっと良く分からないことがあったので、お聞きします。
作為のあり方の話なのですが、昔の志野や信楽(伊賀)などの茶陶が分かりやすいと思うのですが、作為をこれまでか!と尽くしていかに自然に見せるか?という方向性のものが多いように思うのですが(信楽は茶陶によるみたて以降のもの)、分かりやすく大胆な手とその作為を隠す?繊細な手?がひとつの器に共存しているように思われます。
唐津はまた違うのですが、茶陶においては、考え抜かれたデザインのものを朝鮮陶工の解釈?でつくられているような、そもそも、唐津焼はなぜ?土見せをしているのでしょうか?朝鮮半島では総釉のものが多いのに、雑器だからなのか、それを求められたからなのか、唐津の土が美しかったからなのか?
昔のものの良さは大胆なところと繊細なところのバランスが絶妙であったように思えます。それに比べると現代陶は大胆でしかないものが多いような気がします。
長くなりましたが、分からなかったところは、引用されことの解釈なのですが、ピアニストも大きい会場と小さい会場ではひきかたをかえていたのでは?とも思われるのですが?
以前ある方からお教えいただいた「 技巧を尽くして、技巧を感じさせない手垢にまみれない芸術」という言葉が思い出されました。
>そもそも、唐津焼はなぜ?土見せをしているのでしょうか
唐津の土は生の状態で釉薬をかけると、土見せがあったほうが楽に釉薬がけができ、全体に釉薬をかけると、壊れやすいように思えます。
>昔のものの良さは大胆なところと繊細なところのバランスが絶妙であったように思えます。それに比べると現代陶は大胆でしかないものが多いような気がします。
私も芦雪の拡大写真をみてハッとして、この対談の記事をみて同じように感じましたよ。
大きな会場で、小さな音をひろうのは大変だし、そこまで耳を傾けないようになったんじゃないかと思えました。ライブだと、耳をすましてたら咳払いやなんかがとても気になったり・・・観客が求めてるのも違う(大胆な?)部分だったり・・・
お茶もそうなんですが、小さい会場(小間)というのが少なくなって、大寄せの茶会が主流になってるようにも思えました。
(グールドはライブをやめて、録音で作品を残してます)
追伸:3日に唐津行きますよ。
器楽じゃなくて声楽のほうの方に聞いたのですが大ホールでも、一番前のお客様と一番後ろのお客様にも、同じピアニッシモを提供しなければならないと…あと、歌は心というけれど、あれは下手ないいわけで歌は横隔膜で歌うものだと\(-o-)/
どの世界もプロとして生き抜くには厳しさもあり、大変そうですね。
声楽が横隔膜だと、やきものを作る場合は・・・上腕三頭筋あたりぐらい?
下手ないいわけしたくないので鍛えます!
ご返答ありがとうございます。
大寄せの茶会のことだったのですね、あれは疲れるだけの流れ作業です。
三日は美味しい御菓子を用意しておりましたが、残念...
すいません~時間の都合上、伺えませんでしたm(__)m
(梶原さん、吉野さんで・・・イカを食べて今帰宅しました。御菓子食べたかったです・・・)