うつわやブログ

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December 11, 2006 8:50 PM

陶片に学ぶ

興味のない方からすれば、こんな割れた欠片?
どこがいいのだろう?おかしな人って思われるといけませんので
ちょっと解説を。

sabitani3.jpg

錆谷窯 皮鯨小皿 陶片

sabitani4.jpg

高台部分

割れていない完品を買えればいいのですけど、桃山~江戸時代のモノって高額でなかなか手のだせる金額ではありません。それと贋作も多いし。
しかし、日本の陶磁器のなかで最高によいもが作られたのがこの時代で
先人の多くは、やきものを学ぶならこの桃山~江戸初の時代を学べ!といっています。

美術館に行けばガラス越しに見られるのものの、かなりの距離を感じます。
そこで、身近になるのは陶片ってなる訳で、
たとえ陶片(カケラ)といえども、陶工たちが残した仕事をそこから学ぶことが出来るから、こうやって出しては遊んで・・・いや学習しているんです。

作る側からの視点で陶片をどうみているかというと

この陶片の中には、見る人が観ればわかる沢山の情報が詰まってます。
まだまだ、私にはほんのわずかな事しか掴めませんが

最近、よく思うのはロクロの挽き方について
ロクロを習うと(例外もあると思います)多くは、ブレないよう均等の厚さで歪みなく挽く事を教えられます。
そして弟子入りすれば、同じものを均一にゆがみがでないように神経を使い短時間で多くのモノを作る事を要求され
これが、出来てプロとして一人前というか、当たりまえで
そのような目標に向かって?(要求に応えて?)
作陶してきました。

そして、陶片を観た時に アレ~全然違う!
モノの厚みは力の強弱もあり不均等
おまけに駄目と言われてきた歪みもある。

だが現代ものより、遥かに魅力的です。

陶片を観ていると、もっと自由に作っていいんじゃないと言われているような気もしてきます。そうは思っても、一度覚えたものはそれが常識となってしみこみ、なかなか簡単には抜けだせないようです。

陶片を観ては、あきらめずに よし頑張ろう!という気持ちになっております。
そしてまた謙虚にもなれます。

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Comments (5)

絵と同じですね。絵描きも美大でデッサンとか習うと、身に付けたものはなかなか捨てきれないんですよ。そして、上手いだけでつまらない絵ばかり描くようになります。
私の生徒さんには常々、上手いよりは面白い絵を描くように指導しています。絵の基礎はデッサンではなく、その人の人生経験だと思っていますから。

美術館のガラス越しの一級品より、割れた欠片を選びます。
"人間"が作る物ですから、その時の気分や体調や気候や環境などに左右されて当然だと思います。又それが自然の姿です。そんな自然な気持ちから、いろいろな顔を持った器が生まれる。そういったおおらかさが唐津にはあるのかも知れませんね。いつも同じ物しか作らないなんて変ですよ。人間味溢れる器が好ましい。うつわやさんが陶片から受ける気持ちは外れていないと思うのですが・・。

wadaさん、絵もそーなんですね。長く続ければ誰でも技術は身に付きますけど、技術以外のものって描こう(作ろう)と思っても簡単に出来るものじゃないようですね。

くらいけさん、自然の姿。人間味溢れる器いいですね~
古陶(古唐津)ってなんか表情がありますよね。

あるがまま(人生経験、自然の姿)というのでしょうか
それを無理なく自然にだせたら一番よいのでしょうね。

出しすぎると「うざい!」なんて言われそうですけどw

古唐津(当然陶片です^^;)が、陶器に対する見方を変えてくれた気がします。
初めて手にした時、
「これが桃山陶が素晴らしいと一般に云われている理由か~。」って、
理屈じゃなく自分なりに感じてしまいました。
歪んでいるのに、よく見ると芯が通った雰囲気がして、ブレていないというか・・。
嫌味が無く、逞しく優しい自然な感じも惹かれました。
器から表現される自然なメッセージは、自分の心も自然な気持ちに誘ってくれますね(^^)。

古唐津と出会えてよかったですね。私も同じですよ。

これから多くの人が古陶にふれる機会ができたら
もっといいものが沢山できるのではないかと思いますね。

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